昭和43年9月11日 朝の御理解 第72節


 唯今から、昭和43年9月11日朝の御理解を頂きます。
X第72節「人間を軽う見な。見たら、おかげはなし。」

人間を軽う見たら、おかげはなし。ここでおかげはなしとおっしゃるのは軽うみな、軽うみたら、おっしゃる。軽う見らずに丁重に又、重く見ることによってそれが分かることによっておかげがあると言う事が言えますよね。人を軽う見たら、おかげが無い、だから、人を重く見る丁重に見る。それが見えるようになるとおかげがあると言うことも言える訳でしょうか。まあ、おかげを受けられんはずだなあとこう思う。容姿が悪かったり、自分の都合の良い人だけは丁重に見えるけれども自分に都合の悪い人やら、見かけが悪かったり、致しますと外見だけで軽う見る。なるほど、おかげが受けられんはずだなあと言うことも分かる。教祖様の御信心の全てを私どもが頂くといったような事は出来えるはずが無いですよ。出けんのが当たり前です。実は天地の親神様が何千年何万年の間にこのような氏子はまだ見たことが無いとおっしゃるぐらいな方が言われたり、いわば、なされたことがお教えになっているのでございますから。それが全部自分のものになるなんて出来ようはずが無い。ですから、それが一言でも一言でも徹底して自分の物になって参りますところにですね、そこから、おかげを受けられる。69節にお教えにありますように「信心は見やすう信心するのがよい」とおっしゃる。見やすう信心はするがよい。これは、どういう大徳を受けられた言うような人でも先生方でもきょうその信心の全部を自分のものにされたという事はないはずです。いうなら、ほんの一部です。それをただ徹底して自分の物になさった。甘木の初代なんかは天地の御思想を頂かれてそしてその天地の御思想がそれこそ紙切れ一枚でも水ひとしずくでも、米一粒でもいや、枯れ葉一枚に致しましても神様の御物として頂きぬかれた。それであんな大徳を受けられたんですからね。久留米の初代なんかも信心辛抱さえしておればとこう四神様から頂かれた、金光様の信心はもうほかにはない辛抱しぬくこと、そのことだけであんな大徳を受けられた。教祖様の信心を頂くと言うことは頂いてしまうということはもうこれは、言うなら、至難のこと。出来ない。ですから、その例えば、今日は御理解の中一番短いですね。72節はこれだけです。「人間は軽う見な。軽う見たら、おかげはなし」と そこでこの一つに取り組ませて例えば頂くと致しましょう。ところがどうも軽う見える。自分から、見ると軽う見える。そこにいよいよ自分自身と言う者を見極めなければならない。自分自身が何が出来るのだ。出来ておるようであってもおかげでできておるのじゃあないか。自分で何が出来るぎりぎりの自分と言うものを私はわからして頂くところから、そこから、全ての事、全てのもの、全ての事柄を軽う見なくなるだろうが、まして人間を軽う見るような事のない謙虚な信心が出来る訳です。これは、もう実を言うたら、非常に難しいこと、私どもはそれを何時も思う。出来ていないですから、信心とはね、それに取り組むと言うことは徹することなんです。福岡に新江というところに真奈辺さんという婦人の方がおられた。わたしよりもおばあさんですから、今おられるなら、もう70位になられるでしょう。桜井先生なんかよくご承知でしょうね。私とあちらの出会いと言うのは、福岡に毎朝、おかげを頂いておるときに、ちょうど明ける日が大祭りだというので、大掃除があっておった。内膳のお掃除を一人でなさっておった。よしき先生が私に大坪さんおかげを頂きなさいと私に言われた。とにかく、私どもは門前に入られるなんてもうもったいない話なんですからね。それこそ、もう身の縮む思いで「おかげを頂きますから」と言うてから、・・・・
向こうの端から真奈辺さんがふいて見よる。私はこちらの端から拭いて来よる。こうやってこうあう訳ですよね。拭いて来よる間に、それで会った時に真奈辺さんが「あなたはちょいちょいここでお見かけするのですがどちらからお参りですか」とこう言われる。「私はだいたい三井郡の善導寺の三井教会の信者です、と。「はあ、あなたが大坪さんですか」というて又離れて行くわけですね。又こう会うとその話をする。門膳で皆さんに真奈辺さんが言われる私はもうあの時の事は忘れられない。こう会うてから、一言ずつ話をして行くときがもう楽しかった。私もそうであった。何時もよしき先生が現在お説教なさるときに真奈辺さんの話はもうよう聞いて下ります。」御信者さんによって私が行っておる時に3~40人ぐらい集まります。例えば、参りますと信心に集まって別に話が出来られる訳でもないのです。ご主人もおとなしい方でしたが、やはり中心はそのおばあさんの御信心だったですね。そういうことから、ぜひ、いっぺん私のほうへ寄ってくださいと言うことになり、私はやらせて頂きました。月の中、一、二回は参りましだでしょうか。もう夜通し信心の共励会、その方の信心の始まりといおうか、おかげを受けられたいのは、大変ひどい蓄膿症であった。そして福岡の教会でおかげを頂いてそれから、信心が続けられておられる方であります。そして初めて天地の御恩徳を聞かれたわけですね。特に「御地門をみだりに・すなよ」という御教に焦点をおいての御理解であった。新たの教会から電車通りに出て参りますと、電車通りのちょっと手前に十字路がある。帰りがけにもう天地の御恩徳と他の御恩徳を聞かせてもろうてから、ありがたい神様だと芯から思うて帰って来ておられるところへちょうどその道端にですね。それこそ、誰がたくさんのその大便がしちらかしてあった。もう本当に思わずですね、もったいないことをすると思われてですね。それから、すぐ教会にとって返してから、紙とかバケツをかりてそれから、そこをバケツと紙できれいにお掃除なさる。そのあとを「神様なんにもしらん氏子がこのように・しておりましたことをお詫び申し上げます」というて水で清められた。清められてから、バケツを教会へ持ってかえって、そして電車通りに出来る時にはもう蓄膿症がなおっておった。さしもの、その蓄膿症がなおっておったほどの霊けんをうけられたんです。とにかく、天地金乃神様と言う神様は大変な神様だと。ですから、真奈辺さんは、これだけ徹底しておられたんです。私があるとき参りましたら、ちょうど真奈辺さんのお宅に大掃除があったおりました。お年より二人がなさっておられる。私がもう一生懸命お手伝いさせて頂いたんです。それで、私がお雑巾をかけたバケツを表に持っていって撒こうとしたんですよ。そうしたら、家中から「大坪さん、大坪さん」と何かけたたましゅう言われるんですよ。びっくりしてから、「何ですか」というたら、もう「それはね、流し場の方へ持って行ってあちらで捨てて下さい。お水は外へ撒いちゃあいけません、と言われる。神様のお体にね、こういう雑巾バケツのお水なんか撒いちゃあね、もったいない、相すまん。はあ、言われて見れば、なるほどという程に徹底しておられ人もうあちらに参りまして驚く事はもうこれが十年使います。これは20年使います。と言うようなもう丹念に丹念にそそくり返してある。ご飯茶台なんかもうずいぶんそれこそ骨董というほどにそれがもうずっと修繕してつかっておられる。いわゆる、大事にされるわけですね。もとはだいたい床屋さんですから、私が不精髭をはやして参りしますとですね。もう一日泊まり掛けで話をします。明後日お食事を頂くと今日髭が少し伸びているようですから、今日髭をあたらして頂きましょうと言われる。私も帰りたくない。あちらも返したくないと言うような旅ですからね、相手はご安心下さい。おばあさんですから、もう髭をあたってもらうもですよね。私も一回剃ってもらうとき伺ったんです。考えなさるんですね。・をのべるのに。こちらにするとおくつきの方になるのですね。足をすると、こちらにすると御本部の方になる。こちらの方にすると若松教会になると、とにかく、座敷床をとられるのに困られる分です。自分のおかげを頂いておる教会とか、先生とか、もう億月が会ったり、先生がおられる方角であったり、金光様の方角にはそれこそ足もむけられんと言う徹底しておられる。それは、どこからというと、唯御地門をけがすなよとお教えがですね。もうけがさんだけでなくてもう徹底して清めてまわるというほどしのいわゆる御信心分であった。いうなら、教祖のお教えをそこだけを真奈辺さんは徹底して受けられた。あちらに参りますと肺疾患の患者の人が参って来るんですよ。又、包帯を用意してある。そして、その包帯をずっと胸部に巻かれるお神酒と御神楽を持ってされる。医者が、見放した肺疾患患者が次々と助かって行くんですね。夜の御祈念でも出なさる時には、やっぱり少なくとも20人ぐらい集まって御祈念に、と言う様にです。そんなら、もうおばあさんのことですから、色々な高尚な事知っておられるはずもなからなければ、お話しを出来られる訳でもないけれどもそれでも、徳を受けられる。お徳を受けられれば、受けられるほどにですね。神様のお心に叶うていかれおかげを受けて行かれるわけなんです。一事が万事にそういうほうでした。ですから、もう実に見易卯信心がでけてしかも楽しゅうでけておられるという。ここでは、現在、毎朝こうやって御理解を頂けます。私自身も初めてこの御理解にはこういう深い意味合いがあるこういう広い範囲のたったこれだけのことだけれども、こんなに広い意味合いと言うものがあるんだなということを私自身が分からして頂く。分からして頂きよるからと言うて私のものになっていきよる訳じゃあない。けれども、徹底して行くところまあ、私が徹底して頂いて来たと言うのは何でしょうか。難はみかげといった様なお教えではなかろうが、これは私がここでおかげを頂くようになって十何年間の間だけはもう困ったということが必ず、おかげになって来ております。ですから、その難というそのものを大事にする。だから、それはおかげのもとであるとと言うことを段々分かってきた。人が難儀と言うておるそのことを私は会いがたいものとして、頂いてきました。おかげの元ですからね。しかもこれには徹底して来た。そして、こりゃあ、この世には難儀と言うものは無かったと言うことが分かってきた。あるものは親愛のみだと言うことが分かってきた。もう私の前に難儀と言う言葉はもう必要でなくなってくるほどに難儀と言うものをかんじんですむようになってきた。それに徹底させて頂いてそこから、神様と通うようになった。そこから、神様と交流する事ができるおかげを頂かしてもろうたのでございますから、そういうおかげを頂きますと不思議にです。他の全てのお教えが生き生きとして来るんです。やはり、心の暗いときもありゃあ、いっさい無いときもあるけれども、そういう時に例えば、御理解集を開かせて頂きますと大変難しいお教えと日頃思うておるお教えがです。私の心の中にそれが入ってくる。それは、そん時、そん時では、あるけれども、私の心はもう次のおかげのありがたい心の状態に変わっておる。それが日頃お教えを頂いておかんとです。それが、頂けない。自分の物になってはいなくてもです。それは、ちょうど辞書、辞典を引くようなもの、そういう意味合いで私どもの心の中にですね。やはり、自分のものになっていないに致しましてもね。心の中にですね。やはり、自分のものになってはいないに致しましてもね、たとえばなら、何万字もあるか知らんけれども、あれを自分で全部覚えておく訳にはいかんでしょうか。自分のものにしとくわけには。意味がどういう意味なのか。字はどういう様に書くか。その時に辞典があるとこれは何と言う字か、何と言う意味だと分かるように自分がなっている訳ではないです。だから、それをです。私がなっているわけでは無いです。だから、それをです。私どもは唯一応はマスタ-しておけというのである。そして、私が頂くことはです。たとえば、今日は72節を頂きましたから、ただ、こんなに短い御理解である。しかもここには断言しておられる「人間を軽う見な。軽う見たら、おかげはなし」とおっしゃる。そんなら、反対に人間を丁重に見れる様になったら、もう絶対おかげがあると言うことになるのじゃあないか。それで、皆さんおかげを頂いたらいい。それに徹底していったら、いい。そこから、神様と交流する道を見いだして行ったらいい。神様と交流が始まるようになるとです。これはどういうむつかしいことがあろうがです。それをそん時、そん時であってもそれを頂いて行くことが出来る。辞典を引いたら、すく分かる。それがね、神様と交流していないとですね。もう、それがすべてのものと交流するのはむつかしいか。それは私ども凡人の出来るこっちゃない。教祖様のたとえば、御あられ方といったものが、私どもの身に付いてくるはずはなか。形の真似は出来てもそれこそ心の真似は出来るはずはなか。けれども、その神様の教えておってくださったその一言でも言うなら、半かけらでもです。それを完璧に自分のものにして行くことに徹底していったら、そこから、神様に通うて来るのです。甘木の初代がですね。ある人が甘木の先生こそ、教祖様のやはり教祖様がまあ100の御方であるならば、甘木の先生はやっぱり70~80ぐらいはいただいちゃっただろう。それを聞いてから、私はそのとおり申します。はんなこと言うな。そんなら、あんたたちの先生はもう30頂いたしゃったら、もう教祖生神金光大神にならっしゃるじゃあないか。そんなことあるもんか。あんたがたにしちゃあ、ただほんの一言のいわゆる天地の御恩徳として天地の御恩徳を唯分からして頂いただけじゃあないか。外にどれだけ身についておられるか。それだけ大徳を受けられたことは、事実だけれども教祖様の課程は信心の引き合いは自分と出来るあろうはずがない、という程に教祖さまはすばらしいお方なんだ。あるものが死んで生まれ変わって来たと言うて教祖様の様な方になれるということはもうありえないのだ。この方、金光大神あって神が世に出た。天地の親神様からそういうふうに言われるような方がそう現れるはずがない。おそらく、後にも先に出られるはずがない。また、教祖お一人で十分なんだ。そしてなら、自分の個性とか、性格に応じてです。又、自分に頂いたお教えをそれをどれかを何かをです。自分のものに頂くことに徹底させて頂くという事を言うようなところがまあ、見易う信心すれば、よいと頂くのではなかろうかとこう思う。そして、そこから、通い出すところから、不思議にですね。不思議に神様と通い出しておるから、他のいわば、どのみ教えを頂いてもです。そん時、そん時にそれが私を生かしていく。そん時に私どもにはっきりおかげの道を示して下さる。それが、お教え、言うなら、おかげの辞典のようなものなんです。ですから、ただこれを完結に簡単な唯表面に出ておるだけ位のことでは出けんから、今合楽では、その深い広いいまだかつて頂いたことの無い深いものに広いものにしておかなければならないと言うのがこれは私にかけられた神様の願いの様なものである。私がお話ししておるからと言うて私のものになっているのじゃあないとじゃ、だから、そん時、そん時だけぐらいは、それがお役に立つようなおかげを頂いておけ・には一言でよいから徹底して自分のものにさして頂けるおかげを頂かしてもらはなならんと言うわけですよね。今日は「人を軽う見るな。軽う見たら、おかげはない」ということに徹底しろというわけじゃないです。こういう簡単ないわば、短いお教えもあるというわけです。ですから、必ず、このお教えと同じゅう自説することはいらん。たとえば、一節なら一節のほんの一部分のところだけでもいい徹底して自分のものになることに精進させてこれがいよいよ深められる。御地門をみだりにけがすなよ」という。けがさんだけじゃあない。もうけがしたところ、それを清めて行こうと言うように深められていくものです。なぜなら、それに対して今度はその怪我した人に対してお詫びまでさして頂けよるような徹底した仕方なんです。それこそ、雑巾のバケツの水でも表には下ろさないと言うような徹底の仕方なんです。ですから、私はお道の信心頂くものは変人にならなければおかげは頂かれん。

そこが変人ぶりを発揮して行く変人にならなければ、信心は出きんとおっしゃっておられる。何か一言でも良いから、一ついよいよこれだけは自分のものにして行かねば、ならんという。はたして、皆さんの信心の中身です。日々、これだけ頂けよるか、果たしてどれがあなたのものになっていっておるか。どれがおなたをささえておるか。万全として分かっていきよるけれども自分のものになっておるというものはないという事では相すまん。真奈辺さんの話ではないです。けど、それでお徳を受けられたんですから、神様から色々なお知らせも頂かれる。又、信者でありながら、しかも無学に等しい真奈辺さんのところへたくさんの人が集まってくるようになったんですから、それをお徳と言わなければ私は徳と言うものはそんなもんだと私は思うのです。なら、そうかというてここで信心を話してくださいというたら、おかげ話は出来なさるけれども難しい話は出来なさらん。おばあさんであった。ある先生にいわゆる無学の先生に三代様がおっしゃっておられるように。人が助かると言うことはね、人に親切な心が一つあれば、人は助かりますよ、とおっしゃった。たいがい、あなたは親切にしているからというそういうもんじゃあない。その親切と言うことに徹底して行くと言うことである。人が助かるというほどのことなのでございますから、それが本当に自分の身についてくる。自分の血や肉になってしまう。親切でなからなければならんのですね。どうぞ。